『中論』の思想は、インド人の深い哲学的思索の所産の中でも最も難解なものの一つとされている。その思想の解釈に関して、近代の諸学者は混迷に陥り、種々の批評を下している。そもそもナーガールジュナが何らかの意味をもった立言を述べているかどうかということさえ問題とされているのである。
「空論はニヒリズムか」
かんたんにまとめていえば、その最後の目的は、もろもろの事象が互いに相互依存または相互限定において成立(相因待)しているということを明らかにしようとするのである。すなわち、一つのものと他のものとは互いに相関関係をなして存在するから、もしもその相関関係を取りさるならば、何ら絶対的な、独立なものを認めることはできない、というのである。
「論争の意義」
すなわちもろもろの事物はそれ自体の本性を欠いていて、縁起せるが故に成立しているのである。各註釈において無自性と縁起とは同義に用いられているが、とくに、年代は後になるが、ハリバドラは、無自性とは縁起の意味であると明瞭に断言している。
したがって、『中論』は空あるいは無自性を説くと一般には認められてはいるが、それも実は積極的な表現をもってするならば、少なくとも中観派以後においては「縁起」(とくに「相互限定」「相互依存」)の意味にほかならないということがわかる。
「空の考察」
嘉祥大師吉蔵も或る箇所では縁起と中道とを区別して考えているが、また他の箇所では両者を同一視していることも少なくない。
またたとえ中道という語を用いなくても、縁起は有または無という二つの一方的見解を離れていると説明されている。その他、これに類する説明はしばしば見受けられる。したがって中道は有と無との二つの一方的見解を離れることである。
ともかく、ナーガールジュナによると、ニルヴァーナは一切の戯論(形而上学的議論)を離れ、一切の分別を離れ、さらにあらゆる対立を超越している。したがって、ニルヴァーナを説明するためには否定的言辞をもってするよりもほかにしかたない。
「捨てられることなく、[あらたに]得ることもなく、不断、不常、不滅、不生である。―これがニルヴァーナと説かれる」(第二十五章。・第三詩)
われわれの現実世界を離れた彼岸に、ニルヴァーナという境地あるいは実体が存在するのではない。相依って起こっている諸事象を、無明に束縛されたわれわれ凡夫の立場から眺めた場合に輪廻とよばれる。これに反してその同じ諸事情の縁起している如実相を徹見するならば、それがそのままニルヴァーナといわれる。輪廻とニルヴァーナとは全くわれわれの立場の如何に帰するものであって、それ自体は何ら差別のあるものではない。
『中論』の帰敬序において、「八不、戯論の寂滅、めでたさ」が縁起に関していわれているが、これらは元来ニルヴァーナに関して当然いわれるべきことである。しかるに縁起に関してこれを述べるのは、相互関係において成立している諸事象とニルヴァーナとの無別無異なることを前提としているのである。
これは実に大胆な立言である。われわれ人間は迷いながら生きている。そこでニルヴァーナの境地に達したらよいな、と思って、憧れる。しかしニルヴァーナという境地はどこにも存在しないのである。ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。
では真実のブッダとは何であるか。それはわれわれの経験している世界にほかならない。ニルヴァーナが世間と異ならないように、この無戯論なる如来も世間と異ならないと主張している。
「如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質を持たない」(第二十二章・第十六詩)
まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない。さらに〈すでに去ったもの〉と〈未だ去らないもの〉とを離れた〈現在去りつつあるもの〉も去らない。